東京ユニオン 早稲田大学支部(早稲田大学の教職員で結成)

早稲田大学が透明性のある職場となるようにがんばります

原告 教員の意見陳述内容です

早稲田大学での教員採用における公正性と採用を議題とする団体交渉応諾についての裁判が、第2回目をむかえます。

 

第2回の裁判期日は、10月17日(木)11時 地裁709号法廷です。

多くの方の傍聴をお願いいたします。

 

下記は、第1回に行った意見陳述です。

原告教員の思いが伝わることと思います。

 

意見陳述書

2019年8月22日

原告 石井知章

 私は2016年4月、私は早稲田大学大学院アジア太平洋研究科の専任教員の公募に応募し、書類選考で落選しました。英語で授業ができ、科研費の「代表者」であるなど、いくつかのきわめて高い応募条件が付されており、私はその条件をすべて満たしていました。私は、採用審査が募集要項や採用人事にかかわる内規違反を疑わざるを得ませんでした。

 大学側に選考に向けた手続き過程や私が書類選考の段階で落選させられた理由について説明を求めることに躊躇はありませんでした。

 私はかつて共同通信の記者として報道現場の一線にたち、その後、ILO(国際労働機関)の職員として12年間、東京、ジュネーブ、北京に勤務してきました。国際公務員行政裁判所Administrative Tribunal)では、公募手続において不正人事があったとする争いが持ち込まれることが少なくなく、応募者側が勝訴するというケースもありました。訴訟にまで至らなくても、人事選考を行う側には、その結果について理由を説明する義務を負っていますし、応募者がそれを問うことは、制度上の権利として認められています。私は、日本において「公募制」の名の下で、少なからず不透明な人事がまかり通っている現実を、この問題を通じてはじめて体験させられ、大きな衝撃を受けました。何度も繰り返し、あらゆる方法を行使してそれを求めてきたのは、この問題が、教育研究者としての私自身の誇りと名誉はもちろんですが、このようなことが「採用の自由」の名においてまかり通るようででは、教育研究者に対する地位や待遇の保障はありえないからです。

 一体、誰のための、何のための「自由」であり、「大学の自治」だというのでしょうか。そもそも「公募制」とは「公に募る」ものである以上、「透明性」「公正性」が問われるはずです。しかも、大学における教育研究者の公募は、一般企業の採用人事の性質とは質的に全く異なるものです。大学とは「公共性」や「正義」といった理念を、常に内側から問い続けるという社会的役割を担っているからです。大学とは、社会の木鐸として、高い倫理性や道徳性を保持し、行動を通じて現実社会に移していく人々の実践を培う「学問の府」であるはずです。

 公募は、より公正かつ透明な採用を担保する方法として文科省が推奨したこともあり、90年代末以降、私立大学でも教員採用には公募が行われるようになりました。そうした社会の流れのなかでも、採用者側が選考経過を明らかにすることはけっしてありませんし、それが法的に問われることもありませんでした。公募に応募する者は、膨大な資料を作成する時間と労力を要求され、ほとんどの場合落選します。多くの研究者の時間、労力、意欲を無駄にし、疲弊させながら、その過程は何も明らかにされていないというのが日本における公募制度です。長年非常勤講師を務め、これから専任教員になるために努力を続けている教育研究者の過酷な現実がここに凝縮されています。

 私のように採用選考の過程に疑念があるとき、それを明らかにするよう求めるのは、応募した者の権利だと確信します。私は、公募をやりなおせといっているのではありません。選ばれた候補者の優秀さを疑うものでもありません。ただ、(1)大学は公募による以上公正と透明性を保障すべきであり、(2)大学は教育研究者の権利を尊重し、情報を開示すべきだということ、そして(3)これについて交渉を申し入れられた以上、一刀両断に切り捨てるのではなく、誠実にこれに応じる努力を重ねるべきだということです。

 また、私は、雇用が不安定で非常勤のまま教育研究活動に邁進している同僚たちのことを忘れたことはありません。私の権利主張を認める司法判断がこれらの同僚たちの希望につながることを確信します。裁判所には、国際社会における日本の名誉にもかかわる問題であることを踏まえ、高い識見にたって審理を進めることを求めます。

(以上)

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第2回裁判期日

10月17日(木)11時 地裁709号法廷にて開催されます。

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