東京ユニオン 早稲田大学支部(早稲田大学の教職員で結成)

早稲田大学が透明性のある職場となるようにがんばります

大学教員の真の公募制のために

第6回裁判 9月10日(木)11時 709号法廷 で開催されます!

 

より公正で透明な採用をおこなうという趣旨から、私立大学でも教員採用のさいに公募が行われるようになりました。文科省も公募を推奨しています。しかし2016年に早稲田大学アジア太平洋研究科で行われた公募では、その選考の経過に疑念をいだいた応募者が、大学に事実確認を求めるという事態が発生しました。大学が回答を拒否したため、応募者はやむなく大学を相手に訴訟を起こすことになりました。本日はその裁判の第6回目です。

早稲田大学側は昨年11月28日に開かれた第3回裁判において被告準備書面を提出し、そのなかで、「大学には憲法上学問の自由を保障されているから一般私企業よりも広範囲に採用の自由が保障されるべき立場にある」と主張しています。

たしかに大学において「学問の自由」は保障されるべきです。しかし「学問の自由」は、大学や大学人の特権というより、市民の権利、あるいは普遍的かつ不可侵の人権なのではないでしょうか。「大学の自治」は、それを保障するための「担保」あるいは「手段」であるからこそ、守らねばならないのではないでしょうか。

大学には教員の公募における公正や透明性、そしてそれに応募する者の「学問の自由」を保障する義務があります。普遍的権利としての「学問の自由」が、「大学の自治」の名のもとに封殺されることがあっては本末転倒です。そのことは「大学の自治」が「ガバナンス」と呼ばれるようになった今においても変わりません。「学問の自由」をめぐるこの裁判の行方にご注目ください。

大学には教員の公募における公正や透明性、そしてそれに応募する者の「学問の自由」を保障する義務があります。普遍的権利としての「学問の自由」が、「大学の自治」の名のもとに封殺されることがあっては本末転倒です。そのことは「大学の自治」が「ガバナンス」と呼ばれるようになった今においても変わりません。「学問の自由」をめぐるこの裁判の行方にご注目ください。

 

 

―大学教員の真の公募制のために―

フランスの大学は数のうえでは70ほどだが、そのすべてが国立で、博士課程までそなえている。そのため自ら教員を養成できる。しかし地方とパリとでは提出される博士論文の数も違うし、審査のきびしさも異なる。またいずれの大学にも、自分のところで育てた学生を教員にしたいというネポティスム(閥族主義)がはびこりやすい。CNU(全国大学評議会)という組織が創られ、大学教員の採用における公平を分野ごとに全国レベルでチェックするようになったのは、そうしたなかで生じる「不公正と怨恨の連鎖」を断ち切るためだった。しかし大学間の「自由」な競争が煽られるなかで、CNUの権限は弱められつつある。

日本には768の大学があるが、博士課程までそなえている大学は、旧帝大系をのぞけば東京や京都などの都市圏に偏っている。それゆえ大都市の大学で博士課程を修了した者は、たやすく地方の大学にポストをえられそうに見える。しかし事実はそうではない。地方には総合大学が少ないということ、選考における公正をチェックできるCNUのような機関がないこと、採用が必ずしも公募ではないということがその原因となっている。

文科省は教員の流動性を高めるとして、任期制やテニュア・トラックの導入、そして公募を勧めているが、全国レベルでの公募制の整備はなされていない。自己資金の少ない日本の大学は、私立大学でさえも国と文科省の政策の影響をもろに受ける。競争型資金の獲得競争に参入できる大学をめざせば、文科省のいう「ガバナンス」に大学全体が組み込まれざるをえない。早稲田大学もわずかな補助金とひきかえに、「スーパー・グローバル・ユニヴァーシティー」として大学の世界ランキングの100位以内に入ることを約束させられている。国が推奨するなら率先して、公募もやるのである。

しかし形だけの公募はスキャンダラスだ。採用の自由にこだわるなら、公募はせずに一本釣りにすればよい。ところが一本釣りによっては、多くの有能な研究者に専任教員への道が閉ざされている今の状況を変えることはできない。文科省は公募を推奨するのであれば、全国レベルでその公平を保障するような仕組みを考えないといけない。大都市の大学にいるポスドク、任期切れで放り出された教員、非常勤講師に、専任のポストを得られる機会を増やすことを真剣に考えるべきなのである。